小諸市議会 2019-09-02 09月02日-02号
また、そもそもがトンネルは大正元年に建設されておりまして、既に107年が経過しておりまして、安全性という部分では何ら担保している部分がございません。費用はかかりますけれども、専門の業者による点検というのが必要になってくると思いますし、その点検の結果によっては、もしかしたら高額な費用を伴う修繕が必要になるということもあり得ると思います。
また、そもそもがトンネルは大正元年に建設されておりまして、既に107年が経過しておりまして、安全性という部分では何ら担保している部分がございません。費用はかかりますけれども、専門の業者による点検というのが必要になってくると思いますし、その点検の結果によっては、もしかしたら高額な費用を伴う修繕が必要になるということもあり得ると思います。
過去におきましては、平成6年に発行した「上田消防のあゆみ」によりますと、1912年、大正元年の8月17日に発生した上田地震におきましては、地震規模がマグニチュード5.1、震源区域の上田町を中心に、棚の器物の転落、白壁の亀裂剥離、現在の上田城跡公園にある招魂社などの石灯籠の足の破損などの被害を認めたとの記録が残っております。
これを受けて、大正元年に長野県議会に湯滝、立ヶ花の浚渫が取り上げられ、4,000円の予算化を受け、大正2年度から着工に至ったとの記載がありました。また、大正4年には浚渫費を7,000円に増額されたという経過があるということで、確認をしております。 ○議長(佐藤正夫) 市川議員。 ◆6番(市川久芳) 近年のやつは言われるとおりだと思うんですよ。
大正元年、山本鼎30歳のときにフランス、パリで版画、油絵を学ぶために留学しました。そこで、「ブルトンヌ」、「サーシャ」と、山本鼎を代表する作品を制作しました。4年間のパリでの修行を終え、シベリア鉄道で日本へ帰る途中、ロシアのモスクワへ立ち寄りました。市内へ写生に出かけ、その帰りに今後の山本鼎を大きく動かした出来事に出会うことになりました。
飯沼飛行士は、大正元年8月2日、豊科南穂高に生まれました。彼はいつも常念岳や稲の早苗の植わっている水田を見ながら、数々の苦難を乗り越えて飛行家を志し、松本中学から逓信省委託操縦生試験に304名中4人合格という難関を突破し、優秀なパイロットとなりました。 昭和7年、朝日新聞に入り、昭和9年には大阪から北京間の2,000キロの訪問飛行に成功、その後は次々に海外への空路を開きました。
生糸輸出量で日本が世界一になったのは明治42年、そしてこの翌年、大正元年には生糸の生産高でも世界一になっております。大正初期から第二次世界大戦開戦直前までが、我が国製糸業の全盛期であったと言えます。この全盛期に片倉製糸紡績株式会社は全国に62カ所の工場を持ち、朝鮮半島にも8カ所、ニューヨークには販売拠点が置かれていたと言われております。
石田市長は、97年前、大正元年に開催されたご開帳時に、火災で焼失した仁王尊像の代役を果たされた飯山愛宕町の仏師がつくられた仁王尊像を見にいかれたようですが、私は平成12年6月議会で回遊性のまちづくりにとって大切な飯山の宝であると指摘し、飯山への里帰りを提案しましたが、実現できませんでした。
歴史的には明治43年、44年大洪水により、当地千曲川沿線に甚大な被害が出たことは周知のところであり、それを受け、大正元年、湯滝と立ヶ花のしゅんせつを県議会などで取り上げられ、中心になったのが常盤村の高橋幸作県議であり、大正4年まで西大滝から大割野までの千曲川の岩石等の破砕がなされたことは周知のところでございます。
また、上田地方では消防の歩みによると、大正元年8月17日午前11時21分震度4の地震が起きている。震源地は太郎山の東、金剛寺付近とされ、12キロ範囲にかなりの被害をもたらしたと記録がされております。これは浅間山の火山性地震とされているが、最も身近なところで発生した事実であります。